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秩序の空白を埋める市民感覚を養おう


橋本努 

『経済セミナー』

特集「夏に読もう経済のセンスを磨く本」

2003.8. no.583. pp.32-33.所収

 

 はたしてアメリカのイラク攻撃は、いかなる意味で正当であったといえるのだろうか。米国政府によれば、それはフセイン政権が軍事独裁だからというのではなく、イラクが化学兵器を所持している疑いがあるから、というのがその公式理由であった。化学兵器の所持は国際テロリズムの脅威につながる、だから国連の手続きを無視しても攻撃は許される、というわけである。しかし驚いたことに、最近になってアメリカの主要なメディアは次のように報じているではないか。すなわち、国防情報局(DIA)は政府に対して、昨年九月の段階で「イラクに化学兵器が存在する有力証拠はない」との報告書を提出していた、というのである。アメリカが有力な証拠をもたずに攻撃へ踏み込んだというのであれば、その攻撃は米国内においてさえ、十分な正当性をもたなかったことになろう。つまりアメリカのイラク攻撃は、国際的・国内的手続きのいずれをも十分に満たさない権力の発動だったかもしれないのである。

 これがもし本当だとすれば、私たちが現在目の当たりにしているのは、手続的にはほとんど正当化しえないやり方で国際秩序が形成されていくという「なし崩し」の事態である。なるほどアメリカ主導による国際秩序の形成は、例えば石油の安定的供給、途上国の民主化、あるいはテロの温床となる反米感情の克服といった政治的諸目的に、多くの点で適っているのかもしれない。「秩序」なるものを性急に求める立場からすれば、既存の国家や国際組織の形式的な手続はかえって足かせとなろう。私たちは世界政府のような機構をもたない以上、制度の非決定的状況を埋めるためには、やはりアメリカの帝国主義的な覇権の行使こそが現実的だ、と認識せざるを得ないのかもしれない。

無論、私たちは権力の不当な発動を阻止するための機関として、国連の存在を知っている。しかしその実態は、世界の政府と呼ぶには程遠いものだ。いま私たちに課されている問題は、理想的な国際秩序を求める一歩手前において、いかにして制度や秩序の空白を克服するか、ということであろう。それは同時に、私たちに制度以前の市民感覚を要請する問いでもある。例えばネグリ=ハートの大著『帝国』(水嶋一憲ほか訳、以文社2003年)は、国際秩序が非決定的な危機状況におかれている中で、各人の主体的な実践がますます必要となっていることを明らかにしている。また北沢洋子著『利潤か人間か グローバル化の実態と新しい社会運動』(コモンズ2003年)は、国際機関の実態と反グローバリズム運動の意義を知る上で、最良の入門書であるだろう。

この他にも、世界的な市民感覚を磨くための格好の書物がある。まず紹介したいのは、デイヴィッド・バーサミアンの編集による『帝国との対決:イクバール・アフマド発言集』(大橋洋一/河野真太郎/大貫隆史訳、太田出版2003年)。インドの村落に生まれ育ち、パキスタンに移住した後にアメリカのプリンストン大学に学んだアフマドは、革命動乱期のアルジェリアにおいて政治活動に携わり、六〇年代アメリカにおいては反戦運動の闘士として注目を浴びた。そしてその後は大学教員を務める傍ら、九九年に亡くなるまで、パレスチナ問題やパキスタン問題などの世界のさまざまな問題に取り組んできた。まさにカリスマ的な国際活動家であり、その行動力と洞察力には脱帽する他ない。ビン・ラディン、フランツ・ファノン、アラファト議長、マルコムXなどとも交流があり、彼の具体的な経験に根ざしたその発言は、私たちが世界の諸問題を引き受けるための豊かな指針となりうるであろう。とにかく、国際関係の本のなかで、これほど泣ける書物はめずらしい。世界に対する共感情を養うための適書である。

 E・W・サイード著『イスラム報道』(増補版、浅井信雄/佐藤成文/岡真理訳、みすず書房2003年)もまた、私たちを奮起させる力に満ちた本だ。七〇年代の石油危機以降のアメリカにおけるイスラム報道がいかに偏見に満ちたものであるかについて、サイードは執拗なまでの批判を展開する。暴力や前近代性や原理主義といった言葉を用いてイスラムを報道するメディアの背景には、一〇億人強の人口をもつイスラムの人々を理解したいという純粋な欲望が感じられない、というのが批判の根本にある。イスラム文化に対する蔑視と理解拒否というのは、日本人の態度にもそのまま当てはまるだろう。冷戦後の世界秩序を考えるために、私たちはまずもってイスラム世界を理解する必要がある。なおサイードは、テロ事件後の発言集として『戦争とプロパガンダ1-3』(みすず書房)を出しているが、その内容は真っ当すぎてやや刺激に欠ける。サイードを読むなら、志気と迫力に満ちた『イスラム報道』だ。

 最後に紹介したいのは、ジョン・トムリンソン著『グローバリゼーション:文化帝国主義を超えて』(片岡信訳、青土社2000年)。「グローバリズム」概念の多様な側面を周到に検討した本書は、その最終章において「世界市民」の可能性を探っている。近代化による時間と空間の圧縮によって、人々のあいだには地球規模の連帯意識が生まれつつある。人は、家庭や地域などの様々な次元でアイデンティティをもつとしても、さらに遠隔化した帰属意識をもつことができるはずだ。世界市民の意識を醸成するためには、個々の文脈を大切にしながらも、幅広い歴史的・地理的な知識をもとに自分を捉え返し、また社会間の比較に喜びを見出すという知的かつ美的な態度が必要だ、と著者は主張する。いわば「グローバルに考えながらローカルに行動する」という文化的気質を生み出すことが、善き国際秩序の形成に相応しい市民感覚を育むのであろう。私たちは国際秩序の行方を問うためにも、まずは秩序の空白を埋めるための人間的資質というものに、関心を寄せていく必要があるのではないだろうか。

 

橋本努(北海道大助教授)